タイ捨流剣術 剣龍会事務局
阿蘇火忍神影タイ捨流
事務局:
〒862-0924
熊本市中央区帯山4-38-11
電話:090-3070-3373
受付時間:9:00~17:00※土日祭日を除く
ファックス:096-288-7018
メール:info@taisharyu-kenzhutsu.net
流祖「丸目蔵人佐長恵」は、天草伊豆守のもとで二年間の修行の後に、永禄二年(1559年)十九歳の時に京に上りました。
当時関東一の槍の名手、「剣聖」と言われた上泉伊勢守信綱の門人となり、新陰流の修行を積みました。天性の技量と修練によりめきめきと腕を上げ、神後伊豆、疋田文五郎、柳生宗厳と共に、若くして新陰流伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれるようになりました。
永禄七年、流祖は第十四代将軍足利義輝公の御前上覧演武にて打太刀をつとめ、上泉の兵法は「天下一」、丸目の打太刀は「天下の重宝」との感状を将軍義輝公より賜り、帰国後は新陰流を九州全域に広め「東の柳生、西の丸目」と言われるようになりました。
その後は「新影タイ捨流」として、柳川藩主立花宗茂公や、豊後の大友宗麟公に秘伝を伝授し、相良藩剣術指南役としても多くの門弟を育成しました。柳生新陰流が徳川幕府天下の剣術となったのを機に、「新陰」を外して「タイ捨流」として独自の道を歩みます。技の名は新陰流と同じであるが、業は新陰流を打ち負かすと伝えられています。
参考ページ:流祖「丸目蔵人佐長恵」と系譜 >>
刀法は甲冑剣法で、甲冑の弱点である袈裟や脇下、籠手、脛などを攻めます。流祖は天下一を自負し、柳生新陰流や薩摩示現流に如何にして勝つかを工夫されました。
特に薩摩示現流と立ち会う場合、示現流の厳しい太刀を防ぐため手裏剣や脇差を用いる「十手」と言う技を工夫しました。
「タイ捨流」は「頭上受け」や「籠手交差受け」、「柄受け」などの多様な受け技や、飛び上がって袈裟から一刀両断するという激しい技で戦国の世を生き抜いてきました。
参考ページ:タイ捨流剣術伝統型 >>
隠居後の流祖は徹斎と号し、多くの門人たちを育成しながら七十歳より私財を投じ、農民のために水路を掘削して田畑の開墾事業を行いました。武術は剣、槍、薙刀、手裏剣など二十余の奥義に達し、書は門跡寺院青蓮院宮の御免筆にて、歌道においては源氏物語や古今和歌集など伝授し、当時流行した乱舞を嗜み、笛は無類の上手であり相当な文化人でもありました。
一方では、イエズス会イタリア人宣教師カミッロ・コンスタンツォによって、洗礼名「パウロ・マルモ」(原語ではメとモは同じ)として、本部イエズス会総長へ「医者、文筆家、詩人、剣術の師範であり、敬虚で純粋なキリシタン」として報告されています。
当時、宣教師であり西洋外科医であったアルメイダ神父より南蛮外科医学を学んだとも思われ、健康長寿を願う「保寿剣」を考案実践し、寛永六年(1629年)九十歳にて天寿を全うしました。
当時人生五十年と言われる戦国時代、現代の生涯年齢に換算すると百十三歳まで長生きした事になります。そして戦国の世を逞しく生き抜き、晩年には開墾事業等の社会奉仕や人材育成に務めました。人吉歴史資料館の古文書には、開墾地一武には若い人々が「うんか」の如く集まり学んだと記録されています。
参考ページ:「タイ捨流」と人吉の歴史文化について >>
「タイ捨流」の名称は、日本の流派にはめずらしくカタカナを使用しています。その理由は、漢字で表記すれば「体、待、太、対」など漢字に捉われるので、あえてカタカナにて記すとされています。しかし、人吉相良藩の記録古文書「南藤蔓綿録」には「大赦流」「体捨流」と書かれています。「大赦流」の名称は、「大」は「だいうす」つまりデウスを意味し、「神よ、私達の罪をお赦し下さい。」とキリシタン的に解釈できます。
タイ捨流剣術居合の最初の形「燕飛」には、「南無大聖摩利支天菩薩神呪経」、「天清浄、地清浄、人清浄、六根清浄」と唱えます。「タイ捨流」は神道、仏教、キリスト教、山岳信仰等が混合し、日本古来の刀法と中国武術の「蹴り」などが混在した特異な剣術です。
また忍法は「裏太刀」として伝承されています。流祖の右腕となった中国人武術家伝林坊来慶は、山伏として活動しながら相良忍者集団を統率したと言われています。
タイ捨流剣術
第一四代宗家 西島 淳一
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