流祖「丸目蔵人佐長恵」と系譜

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流祖「丸目蔵人佐長恵」

流祖「丸目蔵人佐長恵」は、天文9年(1540年)に相良氏の領国内であった肥後国八代郡八代(熊本県八代市)で誕生しました。

弘治2年(1556年)、肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守のもとで2年間兵法の修行に励んだ後、永禄2年(1559年)19歳のときに京に上り、新陰流の創始者であり「剣聖」と仰がれた上泉伊勢守信綱の門人となり、新陰流の修行を積みました。
当時、上泉は関東一の槍の名手と言われていました。

その後、流祖長恵は天性の技量と修練により、めきめきと腕を上げ、若くして新陰流伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれるようになりました。
<四天王>
丸目蔵人佐長恵:タイ捨流兵法の流祖
疋田文五郎:疋田陰流剣術・新陰疋田流槍術の祖
柳生宗厳:剣術の新陰流継承者
神後伊豆:新陰流の奥義をきわめ、将軍足利義輝、関白豊臣秀次の剣術師範となる

永禄7年(1564年)、流祖は第14代将軍足利義輝公の御前上覧演武にて、師である上泉の打太刀を務めました。その見事さに、上泉の兵法は「天下一」、丸目の打太刀は「天下の重宝」との感状を義輝公より賜りました。

帰郷した後、新陰流を九州全域に広め、「新影タイ捨流」として柳川藩主立花宗茂公や豊後の大友宗麟公に秘伝を伝授し、多くの門弟を育成して「東の柳生、西の丸目」と言われるようになりました。

永禄9年(1566年)、弟子を伴い再び上洛し、愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げ、永禄10年(1567年)には、上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状(免許皆伝)を受けました。

再び帰郷した後には、上泉より西国での新陰流の教授を任され、兵法修行にさらに専心しました。そして、柳生新陰流が徳川幕府天下の剣術となったのを機に、「新陰」を除き「タイ捨流」とし独自の道を歩みはじめたのです。
「タイ捨流」の技の名称は新陰流と同じですが、業は新陰流を打ち負かす技となっています。
「タイ捨流」は、九州全域に広まり、特に肥後人吉藩、肥前一体では流祖自らが訪問したこともあり「タイ捨流」が盛んとなりました。また、中国地方や東北地方にまでも広がり様々な流派が派生していきました。

流祖は、隠居後は徹斎と号し、多くの門人たちを育成しながら、70歳より私財を投じて農民のため水路を掘削し、田畑の開墾事業を行いました。
武術は剣、槍、薙刀、手裏剣、馬術や忍術など20以上の奥義に達した剣豪であり、書は門跡寺院青蓮院宮の御免筆にて、歌道においては源氏物語や古今和歌集など伝授し、当時流行した乱舞を嗜み、笛などにも優れた才を示した文化人でもありました。

なお、イエズス会ポルトガル宣教師によって名を「パウロ・マルモ」(原語ではメとモは同音表記)とし、本部イエズス会総長へ「医者、文化人、剣豪」として報告されています。
当時、西洋外科医であったイエズス会司祭ルイス・デ・アルメイダより西洋医学を学んだと思われ、健康長寿を願う「保寿剣」を考案実践し、寛永6年(1629年)90歳にて天寿を全うしました。

また、流祖の右腕となった中国人武術家伝林坊来慶は、山伏として活動しながら相良忍者集団を統率したとされています。
「タイ捨流剣術」の中に中国武術が混在し、忍法は「裏太刀」として手裏剣と共に伝えられています。

「タイ捨流剣術」の系譜

  • 流祖 丸目蔵人佐長恵
  • 二代 神瀬軍助惟幸
  • 三代 相良庄次郎頼武
  • 四代 相良佐兵衛長房
  • 五代 神瀬五右衛門惟宣
  • 六代 小田七郎右衛門定矩
  • 七代 小田夕可定紀
  • 八代 小田直左衛門定能
  • 九代 小田金駄左衛門定記
  • 一〇代 小田八郎左衛門定直
  • 一一代 佐無田忠蔵良興
  • 一二代 小田夕可定孝
  • 一三代 山北竹任
  • 一四代 西島淳一(藤原定頼)

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タイ捨流剣術
第一四代宗家 西島 淳一

タイ捨流剣術 剣龍会事務局
阿蘇火忍神影タイ捨流

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